Author Archives: 岡田 健志

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デジタル・ナレッジ「eラーニング戦略研究所」にて、最新技術(AI,VRなど)を使った教育の可能性について日々考察。 スイーツ好きの、のほほん関西人。東京はまだまだ不慣れ。

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2つの「アダプティブ」をめぐっての論点整理

ハッピーバレンタイン!

朝から妻にブタちゃんチョコレートを貰って、びみょ~な感情で一日を過ごすことになった研究員・岡田です。

喜んで食べればいいのか、自らを客観視する覚悟で食べればいいのか、、、それとも懺悔の念をもって「食べない」という選択をすべきなのか・・・

みなさん、効率的な正月太り解消法があったら是非教えてください!

 

さて、今日は短く、結論もないのですが、頭の整理に一つ書いてみます。テーマは「アダプティブ」。

 

実は、弊社COOの吉田が以前書いていた記事(https://www.digital-knowledge.co.jp/blog/archives/2738/)を最近になって読みました(ヲイ)。何故か、この記事は見逃していたんですよね~

ま、一人の社員が社内のすべての活動に目を通すということがいかに難しいか、ということはまず伝わったことかと思います。

 

大変興味深い記事なので、是非詳細は読んでいただきたいと思います。今日の論点に関わることだけピックアップします。

ズバリ、

アダプティブ学習によって、学習時間は「増える」「減る」問題!

 

興味深いのは、先ほどの記事でClassiさんがKnewtonさんのアダプティブエンジンを使って実証したところ、「学習者の学習時間が増えた」という結果が出た、というくだりです。

一般的に、学習がアダプティブになると学習の無理・無駄がなくなるので学習時間が「減る」という決まり文句が多いのです。

 

ここに、一つの混同があるのではないか、というのが今回の論点です。

 

アダプティブには「評価・テストのアダプティブ」と「学習のアダプティブ」があると思いますが、これが混同されているのではないかな、と思うのです。

 

高大接続改革会議が発足した頃、大学入試改革の文脈の中で、おそらくはCAT(Computer Adapted Testing)を示唆するような表現がありました。そこではCBT(Computer Based Testing)とIRT(項目反応理論)を組合わせることで「テスト時間の時間短縮」を目指すとありました。※現在ではこの論点は消えています。

 

(1)評価・テストのアダプティブ

テストの目的は、能力の評価です。つまり、視力で言うなら、「0.8」ということが分かればその目的は達成されます。

ランドルト

誰しもか経験があると思いますが、視力検査の時には、出題者は中くらいの難度のランドルト環を見せます。例えば0.6のランドルト環です。この0.6が見えなかったりすると、0.5とか0.4のランドルト環を見せるのです。そうやって、能力値(視力)を収束的に測っていきます。この時、0.6が全く見えない被験者に2.0のものを見せることはまずありません。つまり、被験者の視力に合わせたテストが普通は行われます。

しかし、一般的な学力検査はペーパーテストであり、その場合には、どのレベルの受験者も同一のテストを受けることになります。

つまり、上の視力検査表でいうと、0.1~2.0の難度の問題がすべて出題されます。カンタンな問題であろうと難しい問題であろうと同じ配点なら、カンタンな問題から解いていくしかないのです。

視力検査であれば、例えば0.8の視力の人に対して、0.1のランドルト環で検査をし続けることは意味がありません。でも、テストの場合、大抵は、0.1の難度の問題や0.3の難度の問題もクリアしていかなければなりません。合計点が計測の基準となるからです。
しかし、視力が0.7なのか0.8なのかを正確に計測したければ、その辺りの難度の問題を手厚く出題して、受験生の反応を観察するべきだと思います。特に検査の時間が限られているのであれば。
同時に、出題の難度の幅が狭くなるのであれば、出題数も少なく済むことにもつながり、「時間短縮」も達成されやすくなります。
このような「評価・テストのアダプティブ」がもたらすメリットが、そのまま「学習」にも通用するのでしょうか?
(2)学習のアダプティブ
学習の場合には、上記のような単純な話になりません。というのが、学習の「目的」「目標」が学校・クラス・個人・教師によってさまざまだからです。
たとえば、「目の前の特定の問題を解くことができるようになる」ことがとりあえずの学習目標 だとします。この場合、この問題が解けるならOK。解けないなら、更なる学習が必要になってきます。その場合、心理的状況などを除外すれば、教師はだいたい以下の二つの方法をとると思います。
「難度を下げる」
「前の単元に戻る」
という2つです。後者はカリキュラムデザインに拠ります。
前者は、類題で手順が簡単なものをいくつか解かせることで、トレーニングし、手順が複雑だったり細かい注意が必要だったりする高度な類題を解けるようにします。この場合には、学習者個人の呑み込みの早さなどが影響しますが、一定のトレーニングの時間が必要になります。
類題の中でもかなり簡単な問題でさえ解けないのであれば、その理解不足の「根」に帰らなければなりません。その場合、前の単元に戻るという選択もでてきます。
今まで、理解不足の単元を多く残している生徒は、このシステムを真面目にすると、当然ながら学習時間は延びていきます。
逆にどんどん出来ていく生徒や以前の関連単元をしっかり理解している生徒にとっては、無駄な問題(難度が不適切な問題)はカットされるので時短となるでしょう。
・・・と書いていながら、もやもやが残ります。そもそも、時間が増えた・減ったという時に基準となっている「標準学習時間」というのは何が根拠になっているのでしょうか?自己申告?
むしろ、この基準は「一斉授業をするとしたら」想定される時間のことではないでしょうか。つまり、時短が達成されるとすると、集団学習による一斉授業の在り方(受講生によって「無理」「無駄」が多い)ということが解消されるということが大きな要因なのではないか、と個人的には思います。つまり、時短と言う時の比較が「一斉授業vs個別最適化」ということであり、「適切な自己調整学習vs個別最適化」ではないのではないか、という疑問がつきまとうのです。

 

もう一つ、学習の目的というものがあります。「定期テスト対策」ということであれば、「どこまででも難しい問題を解く」ことは要求されません。でも、「受験勉強」ならばそれが求められます。つまり、個別最適化された学習のゴールがどこに設定されるかで、学習者の行動は変わっていくはずです。

 

冒頭に参照した吉田の記事にも、「学習者の主体性」について書かれています。

 

まだまだアダプティブ教材について結論を出すには社会の中での実践例が少ないかと思います。今後、さらに利用が増え、教育提供者が求める学習目標をうまく反映できるシステムや教材づくりのノウハウがどんどん増えていくでしょう。その時に、またこのテーマで筆をとりたいと思います。

 

デジタル・ナレッジでは、このようなアダプティブ・システムについていつでも相談に応じます!

 

本当にあった「怖い話」~学習の「自己責任」について考える~

東京は雨がほとんど降らない日が続き、乾燥がすごいですね。風邪をひきやすい状況です。みなさん、一層のご注意を。

実は昔は某教育企業で塾講師をしていた研究員・岡田です。先日、「いくつの人生、やってんすか?」とアラサーの方に言われました。このところ、人生展開がスピーディーです。

 

さて、今日は『本当にあった怖い話』をしたいと思います。

 

◆本当にあった怖い話◆

みなさん、これが読めますか?

発音記号1変換ミス

 

もし、この一覧を上司から「こちらのノートに写して覚えておいて」と言われたら、どのような反応をされますか?

 

 

お気づきのように、これは「文字化け」しているので、このままでは理解不能です。

 

正しくは、このような表となります。

 

発音記号2比較

 

実際にあった話です。

ある中学3年生の女子に、英単語を覚えてもらおうと、先生が単語リスト(スペル・発音記号・品詞・日本語の意味)を渡し、『何度もノートに書いて覚えてね』と課題を出しました。

 

2時間後、その先生が自習室の彼女の様子を見に行ったら・・・延々と意味不明な記号を写している状態を発見しました。

勉強女子

 

何度も、何度も、その先生は女子生徒に謝っていたのですが、その生徒は

 

『え?でも、勉強になったから…』

 

とまるで怒っていない様子でした。

 

 

ね?怖いでしょう?

先生もプリントアウトした時点で気づけよ、ということは置いといて・・・

 

既に中学3年生。発音記号も習っている。その子が、(1)発音記号の文字化けに気付かない

何よりも、「よく分からない記号だけど・・・ 何のために写しているんだろう?」と、(2)自分の学習の目的を考えていないということが恐ろしいです。

 

教師やコーチといった存在が必要な理由の一つとして、学習者が学習内容により集中することができるように、その他の学習方略・戦略などを構築する、ということがあります。つまり、「良い教師」というのは学習者が信頼して学習の方向性決定などの一部の判断を「任せる」ことができる人のことを言うのでしょう。

そういう意味では、先ほどの怖い話の女子生徒も先生を信頼しきっていました。ただ、ここに問題の根っこがあります。

 

 

◆学習者が陥る「判断停止」◆

「信頼」は同時に学習者の「判断停止」を促す場合があります。

先生が言っているから、間違いないだろう

教科書に書いてあるから、きっとそうなんだろう

まあ、イチイチ反論されていると授業にならないので、多少はこういう状態も必要なのですが・・・

ただ、この姿勢は行き過ぎると困ったことになります。例えば、英単語を「何度もノートに書いて覚えなさい」と言った場合に、「覚える」というゴールではなく「書く」という行為に注目して、「何度書いたか」が学習進捗の自己評価にすり替わることがあります。もっと困ったことは、教師が何故かそういうすり替えを行う場合もあるということです。

確かに、「理解」や「記憶」はチェックしにくいものですが、「行動」はチェックしやすいですから。

 

指導

以前、講演を聴いた東京大学の吉見俊哉教授が行っていたという『アタック・ミー』という授業はまさにこの判断停止を徹底的に払拭する目的をもっていたと思います。『アタック・ミー』では、受講者が吉見先生の著作を読んで、徹底的に先生の著作・論に対して批判を行う、というもの。質問や要約はダメ。あくまでも自らの判断で批判を行い、それに対して吉見先生がまた議論をしていきます。

このような活動の中で学習者にとって得られることはたくさんあります。もちろん、著作を熟読することで得られる知識・情報というものはあるでしょう。それだけではなく、「真理というものについての考え」を改めることもあるでしょう。つまり、真理というのは集団的な思考や相互検証によって構築されていく、という観点。有名教授でも最初から出来上がった存在ではなく「小さな思索の積み重ねで形成されている」という実感をもったり、自分に「判断が委ねられていること」の実感というのも。それらは考えながら学ぶ姿勢につながります。

 

しかし、先ほどの怖い話のような場合、本来であれば学習者自身が自らを評価しながら(つまり「自分は本当に理解できているだろうか」という省察をしながら)学習を遂行する場面で、そのような評価のない単純な作業に置き換わっていることが起こっています。つまり、「理解」よりも「行動」の方がチェックしやすく、それ故に責任も取りやすいということです。例えば、覚えていなくても「でも先生!僕は100回も単語を書いたんですよ!言われた通りに!」と言われたら、努力不足という評価はできません。(個人的には、学習者のそんな状態の方が危機的な感じがしますが。。。) 責任の向かう先が「理解」という個人の内的なものではなく、「行動」という外的なものになっているというところが構造的な問題なのだと思います。

 

◆ますます求められていく「資質・能力」◆

教育というのは、学習者が「学びたいことを学ぶ」という次元とは違って、「学ぶということはどういうことか?」も学習者に示していき、適宜自らの学習を調整できるように判断ができるように促していくことが含まれると私は考えています。学習者自身が自己責任で自らの学習の在り方を判断できるようになって、「学びたいことを学ぶ」ということがはじめて実りあるものになるのではないでしょうか。

ここで、注目したいのは、文部科学省も新しい指針として打ち出している「資質・能力」を向上させる教育です。

国立教育政策研究所(編)『資質・能力 理論編』(東洋館出版社)では、知識だけではなく「能力・資質」がどのようなものなのかを詳細に解説しています。詳細は読んで確認していただくとして、まとめとしてpp.67―68に記載されている内容をかいつまんで転載します。

  1. 学び始めには学習に使う手段、学び終わりでは学習内容も含みこんだ次のための学習手段。したがって方法知でありつつ、内容知も含みこんだもの
  2. 知識の質向上のために必要不可欠な手段かつ目標。
  3. 「資質」を中心に人格(価値・態度等)に関わるもの

 

ややこしい表現ですねw

でも、例えばスポーツやピアノなどのレッスンになぞらえるとわかりやすいかもしれません。

ピアノレッスン

 

ピアノの場合、ピアニストになる資質として例えば「真面目に練習すること」「指導者の指導に素直に従うこと」や「音感」「リズム感」などの項目が挙げられるかもしれません。これは、バイエルなどの教則本にある楽譜という情報だけで充足されるものではありません。もちろん、それぞれの曲を練習し、指が思い通り動くことが求められ、その中で「能力」として「音感」「リズム感」が向上していくので、新たに少し難しい曲の練習ができるレベルになっていく、というものです。ここで注意したいのは、具体的な曲というものなしに「資質・能力」だけを育成することはできない、ということです。

実は、私の父親はオルガニストでした。学生時代、アルバイトでピアノのレッスンを頼まれた時に、その保護者の方に

『全くピアノは初めてです。でも、ベートーヴェンの『熱情』が弾けるようになりたいので、『熱情』だけレッスンをお願いします。』

と言われたことがあり、断った、ということを話してくれたことがあります。

目標(『熱情』を弾くこと)があることは悪いことではありません。しかし、その曲が弾けるくらいの「能力」を身につけること、その「能力」でもって『熱情』を自分が弾きたいように弾くことこそが本来の目的でなければ、いびつなレッスンにならざるをえません。

そして、逆に次のことにも注意しなければならないのです。どんな曲でもやみくもに弾いたという経験値さえ積み上げれば、結果として高い能力が身につくわけではない、ということです。必要条件と十分条件を履き違えてはいけません。

 

勉強や仕事になるとこのような履き違えがよく見られるようになります。

例えば身体の大きさや能力を向上させるのに、がむしゃらに食事して運動してもその通りにはなるとは限りません。

同様に、知識を詰め込んだところで、それを消化し、自らの(適切な)栄養分に変えないといけません。学習も学習内容を既知の知識と関連付けて理解したり、それまで素朴に有していた信念や思い込みを改訂していったりしながら、理解・認識の「枠」を脱構築していくことが求められています。

 

本来、良い教師や良い上司・先輩というものは、学習者がどのような認識枠を持つようになったか、行動の動機をどのようなことに求めるようになったかなど、発達段階や個性を念頭に置きながら評価し、それに応じた対応を学習者にしているのだと思います。同じ情報や知識を与えても、同じように認識も理解もしないかもしれません。なぜなら、学習者たちはそれぞれ有している既存知識も価値観も認識の枠も違うのですから。(つまり、「資質・能力」が異なる。)

 

◆ウサギ―アヒルのだまし絵から考える「認識の枠」◆

ちょっと「認識の枠」という言葉が分かりにくいかもしれないので、少し解説します。

認知心理学や哲学などに親しみがないと、ちょっと考えにくいことかもしれませんが、私たちは物事を見たり聞いたりしている時、個々人の背景知識や精神状況、学習の履歴などによって、モノの見え方が違います。「いや、コップはコップ、それ以外に見えないだろう?」という反論があるかもしれません。でも、意外とそうではないのです。

みなさんは、だまし絵で「ウサギにもアヒルにも見える図」というのをご存知でしょうか?似たようなもので、若い女性にも老婆にも見える絵というのもあります。学校の美術の教科書などにも紹介されているので、どこかで見たことはあるかと思います。

あの絵を見て、「ウサギにしか見えない人」というのがいます。逆に「アヒルにしか見えない人」というのもいます。仮想的な話であれば、「ウサギを見たことないがアヒルはよく見ている人」などはそうなりそうです。でも、文化的にウサギもアヒルもよく知っている人でもそうなのです。実は、私は違う絵ですが、周囲の人が言っているようには全く見えず、ずっと悶々とした・・・という経験があります。でも、ある時にハッと気づいて、どちらにも見えるようになった時、世界が広がったように見えました。つまり、認識の「枠」が広がったり、柔軟に枠を入れ替えることができるようになったのです。

ちょっと違いますが、視点(Point of view)によってもモノの見え方は異なります。「教師の立場からすると…」「弁護士としての判断だと…」など、人はその立場や経験や個人的な趣味や倫理観などで、同じ状況にあっても様々な解釈やモノの見方をします。

 

◆OJT(On the Job Training)が重視される理由とは?◆

社会人教育でも、OJTが重視されるのはまさに「座学的な知識では得られない能力・資質を養うことが重要だから」だと思います。

ところが、OJTについても誤解が散見されます。つまり、具体的な現場で求められる知識を得ることだと理解されているのです。

この違いを説明するのに、敢えて次の表現を使いたいと思います。「演繹的教育」と「帰納的教育」です。

 

演繹的教育というのは、ある正しい知識(数学的には公理・定理)から正しい適用を行う教育です。この場合、適切な状況で適切な知識を再現することが求められます。教師は正しい知識を教えます。テストや業務で、その知識が適用できる状況だと判断したら、その知識を再現して適切な行動を行います。もし、それが再現できない場合、教師が生徒に「これ、教えたよな?なんでできないんだ?」と叱るのは、この教育観が無意識に前提されているからではないでしょうか。基本は教えるけれども、応用するのは生徒側の問題だと。

逆に、帰納的教育というのは、様々な体験の中から合理的な知識を構築するように促します。ここでは科学的な帰納法ほど厳密ではありませんが、自分の経験から「何が知識として構築できるのか」を学習者に考えさせ、それを教師側が吸い上げて認めてあげる、というスタンスです。知識の構築方法や、認識の「枠」に関わる部分を教師と生徒が一緒になって構築していくことが企図されています。

OJTで求められているのは、その業界や職責に応じた認識・判断ができる力をオーセンティックな経験を通じて身につけることです。つまり、帰納的教育が重視されていると思います。

単純に「こんな時はどうする?」というシミュレーションでクリアできるのであれば、映像授業がクイズでもある程度のことはできます。むしろ、「こんな時」というのが自然に発生しずらくOJTが高頻度で行えない状況(例えば災害とかクレーム体験)などは、VRなどの映像を使って事前に何パターンもトレーニングしておくことでクリアされます。

先ほど、「具体的な現場でも求められる知識を得ること」(これは先輩の体験をもとにしているが、学習者にとっては「演繹的教育」)と表現した事柄は、このようなVRシミュレーションでかなりの程度クリアできるようになってきています。

 

問題は、その先です。

世の中は想定されたシミュレーション以上に複雑で見通しが利きません。不測の事態が起きた時に判断する主体が自分の責任のもと、判断し、行動することが重要です。学習者が自分で判断する認識の枠をもつこと、それを信頼できると周囲が認めること、が大事です。そのように自らの判断の拠り所を内的に持った人間が、熟慮の末に失敗した場合、おそらくは失敗した本人が自ら責任を感じます。

つまり、教育の目標の一つには、ある文化的・社会的集団の一員としてその集団の他の人たちからも納得されるような認識・判断・行動ができるように育てる、という事柄があります。これは「マニュアル人間」とは対極です。マニュアル人間というのは、「指示通りにしか行動できない」ということであって、明文化されていなくともその時々で合意形成がなされるような判断を自分で行う人間は(結果として周囲と同じ結論に達したとして)マニュアル人間ではありません。

 

さて、ここまでは単なる問題提起ですし、私自身が画期的な解決法を持っているわけではありません。

しかし、eラーニングを推進し、eラーニングの新しい可能性を拡張しようとする立場として、常に「ラーニングとは何か?」ということを考え続けなければならないという自戒を込めて考えてみました。まだまだeラーニングも、そして社会人や学校教育も課題は山積しています。しかし、「考え続ける人材を育てる」という目標は揺るがないと思います。

 

責任感をもって仕事をする、ということの基礎は、「学びに対しても責任をもてるようになる」ということなのではないかと思います。

 

「紡ぎだす言葉」と「つつけば出る言葉」~京都教育大学附属高校の授業から~

哲学者テオドール・アドルノの文章は、非常に難解だということで有名で、その理由を彼は「難解なことは難解な言葉でしか表現できない」という旨で説明したと言う。

は!・・・いきなり柄にもない書き出しをしてしまって、自分で自分にうろたえている研究員・岡田です。

 

言葉って難しいですよね。私は以前は理数系の授業者でした。(文系出身者のくせに。)

言葉のセンスを、言葉で説明する本気の文系の授業ができる先生方に憧れていました。私には無理だな、と。

 

特に、表現のスキルって、伝えたい「内容」が理路整然とするだけで伝わるものではなく、なかなか箇条書きに明示できないものが背景にあると思うんですよね。

大学院で論理学とか数学の哲学を研究していた人間として、「論理的に語らないと人には通じない」という紋切り型の表現はあまり好きではありません。まず論理的って、カントの表現を借りればア・プリオリで分析命題ということで、情報量は一切増えないものです。(つまり、「独身者には妻がいない」という文は論理的に正しいが、馬鹿らしいほど何も言っていない。)

むしろ、根拠をもって「合理的に」語ることの方が大事です。(論理的と合理的のちがいは調べてみてください。)

シンプルに言って、論理的ではないけれど、人が納得する言動っていっぱいしていますよね? 人間の社会って、論理的ではないことでいっぱいです。

 

さて、そんなことを考えさせられた授業を見学できたので、それを報告します。

 

2018年12月6日 京都教育大学附属高等学校での佐古先生の公開授業でした。

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こちらは、京都教育大学の附属の各学校の先生および京都教育大学の先生方が授業見学に来られており、私もAIツール『トレパ』のサービス設計者として招かれました。

授業の構成としては2部構成でした。2コマ連続の授業で、1コマ目は2コマ目のディベートのための準備です。

 

普段、増進堂の英語科検定教科書(http://teachers.zoshindo.co.jp/textbook/)を使用して授業をしているようなのですが、その本文の中で動物実験がテーマの文章が出てくるとのことでした。

生徒さん達は英語の授業でその内容に触れ、また佐古先生から参考資料も渡されて、自分たちなりにこの社会的な問題について考えるようになっていったという背景があります。

そこで、そのまとめとして、ディベートを英語で行い、自ら発信したい事柄を英語で表現することに挑む授業が設定された、という流れです。

その中で、1コマ目の「準備」では、各グループがディベートでより説得力を持つための論点を話し合って決めることと、ディベート中に相手側に対して「反駁」したり「ポイントを確認」したりするための定型的な英文を『トレパ』で練習することに充てられていました。

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つまり、論点を理解し、確認し、反駁するために必要な定型文を、口をつつけば自然に出てくるくらいまでにトレーニングします。

その定型文までたどたどしいと、考えながら話すというディベートというアクティビティ自体に集中できなくなります。頭のリソースをなるべくディベートに割り振りたい。そのために、圧縮できることは事前に圧縮する、という目標だと理解しました。

 

これは、私がよくセミナーで提案する事柄と相似だと思います。

トレーニング

私の提案は、AI(人工知能)という技術の限界点を見据えた上でのものです。指導場面をTeach、Training、Activitiesとに大別したとして、現在のところAIが教育に入り込むのはTrainingの部分であろう、というものです。(Teachについては異論があるかもしれません。ここも自動化できると主張する方もおられるでしょうが、それは別稿で。)

 

譬えて言うなら、裁判というActivitiesで弁護士の口からスラスラと法律や判例が出てくるためには、やはり六法や判例を頭に叩き込むこと(Training)が必要だと思います。あるいは、運動でたとえるなら、バスケットボールの試合と、基礎トレーニングのような関係でしょうか。

TrainingがActivitiesの基礎となり、ActivitiesがTrainingの目的となることによって、充実した力が身につくように思います。

 

もちろん、授業内で「つつけば出てくる」状態にするというのは、「適した状況で、適した英文を発話できる」ということであって、「発音の流麗さ」とは別の事柄です。しかし、発音が流麗になるまでできるようになっていることは、大きな支えになっていると思います。計算で、最初はたどたどしく繰り上がりのひっ算をしていた子が、無意識に「手が勝手に動く」くらいまでトレーニングすることで、頭のリソースを立式や見直しにつながることに似ているように思います。

 

・・・と、ここまで書いておいて何なんですが、面白いことが起こりました。

私が授業見学をさせていただいた中で、注目をしていた生徒が2名おりました。

1名は、トレパで一生懸命トレーニングしていた男子生徒で、トレパでの発音信頼度も非常に高いものでした。

もう1名は、トレパでのトレーニングを軽く流している男子生徒でした。

 

当然ながら、前者の生徒さんはディベートの時も前のめりで意見を言おうとしていました。トレーニングした定型文はもちろんのこと、それ以外に「言葉を紡ぐ場面」でも一生懸命伝えようとしていたのが印象的でした。

一方で、後者の生徒ですが、この子も伝えようという意欲がすごく、闊達な議論がなされていました。ただ、めちゃくちゃブロークンな英語です。(ほとんど、英語としては崩壊していたかと思います。)また、内容もそこまで深いとも思いませんでした。でも、その熱意が伝わってきて、思わず相手チームの生徒も聞き入るんですよね。

私もその場にいて、引き込まれて感心し通しでした。

 

まあ、当たり前ですが、発音の流麗さと伝える意欲というのは、同一視できないですよね。良い実例を見ることができましたw

 

しかし、これも一般論として提示できるかな、と思ったことは、ディベートの最中であっても「事前に構築した英語を“発音”しよう」という傾向は強いな、ということです。間違った英文を言うことにたいする抵抗感でしょうか。(私はとってもその意識が強いです。ですから、英会話は極力しない生活をしています。)

 

・定型文を正確に発音できるようになる

・状況に応じて適した定型文を言える

・伝えたいという意欲をもって言葉を紡いでいく

これらが本来は相まってスピーキング力に結実していくのでしょうが、トレパはまだ最初の項目にしか寄与できていないかもしれません。(もちろん、有益な情報提供であったり、合理的な内容というのは前提の上ですが。)

 

しかし、スピーキング力の要素とは何かを改めて考えさせられる良い機会だったと思います。

私たちのサービスが、スピーキング力を向上させるための、本当に「一」助となれば幸いです。

 

 

「なぜ、この製品ができたのか?」のラーニングが「欲しい!」を創る

最近、雑誌のLEON(https://www.leon.jp/)を読む機会があり、掲載されている腕時計が2・3桁違うことに思わず「神様の、バカ」と呟きたくなった研究員・岡田です。

皆様、愛する人へのクリスマス・プレゼントは決まりましたか?

岡田は新型のiPad Proの3点セット(本体+キーボード+Pencil)がいいなあ。

 

さて、今日は「付加価値」ということについて考えてみたいと思います。

 

◆「商品」の価値は、誰が創りだすのか?

『新・観光立国論』の中でデービッド・アトキンソン氏が印象深いことを記しています。

京都の二条城に観光に訪れても、ただ畳の間が展示されているだけで、そこでどれほど大事な歴史的出来事(大政奉還)が行われたところなのかという説明がない、と。興味を持たせられないのであれば、せっかくの観光資源もその価値を発揮できない、というのです。

これは、かなり考えさせられる事柄だと思っています。

ナイアガラの滝は世界的な観光名所ですが、これは人工的には創れませんよね?

その場に行くだけで、その迫力に圧倒されると思います。まさにSight-Seeingに価値があります。

ところが、文化的・歴史的なものは、人々の営みの長い時間の流れの中で培われていた価値があるのですが、それはちゃんと価値づけをしていかないとその価値が発見されないまますたれていく可能性があります。

私の家の近くに、沖田総司終焉の地と伝えられる場所があります。単にその碑だけがポツンとあるだけなのですが、幕末の歴史が好きな私からすると、非常に感慨深く、引越したばかりの時には、何人もの友人に紹介しました。

このように、物理的な場所にどのような思いをもって価値を見出すかは知識・嗜好に大きな影響を受けます。同様に、建物の柱の傷でも「応仁の乱の時についた傷だ」と説明されたり、同じ茶器でも「千利休が愛用していたものだ」と言われると、今まで見ていたものが急に価値を持ち始めます。つまり、価値は私たち一人ひとりの主観が、ある知識を得た時に「創り出す」ことがあります。情報が共有されて初めて価値が生まれるものでもある、と言えます。

 

■自己完結しないeラーニング「修了証」の可能性

テレビなどで、レストランや地域の建物などを芸能人が紹介していく番組がよくありますよね。

王道ともいえるこのような番組が多数あるということからも、視聴者が「知識を得たい」「知らなかったことを知りたい」という欲求を潜在的に持っていて、かつ、それが紹介された側もメリットがあるということの証左だと思います。

「ご当地検定」というものがブームになったこともありましたが、人は「知る」欲求をもち、またそれを「褒められる」ことを求めます。

その延長に、自ら情報を発信したいという欲求を持つ場合があります。特にSNSが全盛の現代、自らインフルエンサー(情報を拡散する人々)となろうとする人がいます。その人たちは、情報拡散のためであれば身銭を切り、またその情報拡散自体に価値を見出し、その活動の結果、スポンサーやファンがつきます。インフルエンサーが取り上げた場所・物産・サービスには注目が集まります。もちろん、場合によってはステルスマーケティング(通称「ステマ」)と言われて批判されるので注意は必要なのですが・・・

ここで、知識を得る方法として、テレビで取り上げられること以外にネット上のインフルエンサーというチャネルがあることを指摘しました。インフルエンサーの強みは、フォロワーが自らの嗜好の方向性をそのインフルエンサーに重ねているということです。嗜好が重なっている(あるいは「重ねている」)からこそフォローしているので、彼・彼女が勧めたものは受け入れやすいというとこともポイントでしょう。

さて、eラーニングに目を転じてみましょう。

個人でeラーニング講座を受講できるサービスがいくつかあります。SchooやUdemyといったサービスは、自らが講座を選び、学ぶ。しかし、「学びたい」と欲求はそれで満たされスキルアップできるものの、その学びをフックにして自らインフルエンサーになろうという動きにはなかなかならないと思われます。つまり、学びが自己完結していて、ソーシャルなところに転じることが少ないのです。

その点をクリアしたeラーニング講座があります。

それが、Nアカデミー(https://n-academy.jp/)が提供する『温泉ソムリエ認定講座』です。

講座名に「認定」という表現があるように、「温泉ソムリエ」という資格があります。「温泉の知識」や「正しい入浴法」を学ぶことで得る資格で、修了証はスマホで表示することができ、温泉宿などで修了証を提示すると特典が受けられることも。

資格なので名刺に肩書として載せる人もいる。

通常、個人向けeラーニングというと自己完結型が多いものです。企業での人事研修であれば、eラーニング修了がそのまま人事考課に反映されることもあります。このような「次の発展」が個人向け講座では少ないというのが実情です。しかし、言い換えると、自己完結にならず社会への発信・拡散ができる発展型eラーニングには大きなビジネスの可能性があるとも言えます。『温泉ソムリエ認定講座』であれば、まず受講者自身が全国の温泉をコンプリートしたいと思うことで現地に赴くことが考えられます。その際、知人を誘うこともあるでしょう。知人に知識を拡散することで、その知人が今度は温泉ソムリエを取得するかもしれません。直接誘わなくとも、SNSでの拡散も同様の効果を促すことがあります。

■商品の価値は、「その裏側・壁の向こう」を見せることで高まる

クールジャパン戦略が高まる中、注目されているプロダクト・デザイナーがいます。大阪に本拠地を持つ有限会社セメント・プロデュース・デザイン(http://www.cementdesign.com/)の社長である金谷勉氏です。彼らは全国各地で、伝統工芸の職人たちによるセミナーを支援しています。

100円均一に行けば食器は手に入る時代。なぜ、備前焼の器に数千円を出す必要があるのでしょうか。

一般的な消費者の感覚からするとそこに価値を見出せないかもしれません。しかし、金谷氏によると、「売り場にある商品だけ見ても分からない価値がある。それを、作り手の技術・知識を知ることで理解できるようになる」とのこと。売り場ではない「つくる現場」(裏側・壁の向こう)を見せる営みをしているのです。いわば、「購入者に目利きできるようになってもらう」活動であり、「価値がわかる購入者を育てる」活動であるとも言えます。

実は、私も金谷氏が主催するワークショップに参加したことがあります。備前焼の職人が工程を紹介するだけではなく、他の地域の器との違いなども説明してくれて、私自身が多少の蘊蓄を語れるようになりました。それ自体が楽しいし、備前焼を見かける度にその時の知識がよみがえります。

このような「学び」と「購買」を結びつける新しいジャンルがオンラインで求められているのではないでしょうか。Web広告でも、新しい流れがきています。例えば、検索エンジンで「肩こり」「原因」と調べてみると、改善するための運動法や栄養素を学ぶことができるサイトにとびます。最後まで読んでみると、サプリ会社提供の記事だということがあります。

文化・技術保存の立場からeラーニングとして保存すると同時に、受講者を通じて地域の伝統・文化・歴史のアンバサダーを育成する。それがそのまま伝統工芸などの購買層を育てていくことになる。そのような活動が求められているのではないでしょうか。

 

小学生から学ぶ『AIリテラシー』 ~加藤学園暁秀初等学校でのトレパ活用授業から~

めっきり寒くなりましたね。
三連休は皆様いかが過ごされましたか?
我が家の隣は小さな公園なのですが、そこの木々が紅の彩りを増して、ふと連休中にも関わらずこのブログを書いている研究員・岡田です。
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創作意欲ではないですが、風景が良いと何かしら文章を書きたくなるのは何故でしょうね?

 

岡田はますます様々な方々と会う機会が増えていて、人に会い、話し合う度に、自らの無知を知ることが多いです。

本当に、知らないことは世の中にはたくさんありますね。

 

今日は、「ある出会い」から生まれた取り組みについて書いてみたいと思います。

それは、2018年11月3日に東京・内田洋行CANVASで行われた『日本アクティブ・ラーニング学会』(http://jals2030.net/)の総会でのことでした。

デジタル・ナレッジも日本アクティブ・ラーニング学会の賛助会員でして、この度は総会に参加してきました。

その中で出会ったのが加藤学園暁秀初等学校(http://www.katoh-net.ac.jp/Elementary/)の中原先生です。

 

中原先生とは懇親会の際に名刺交換をしました。そこで、『トレパ』(https://torepa.jp/)を紹介したのです。

岡田『英文のテキストデータさえあれば、5秒でリスニング教材ができるエディターです』

と『トレパ』について紹介しました。中原先生の素直に感動された表情が今でも忘れられません。

 

AIで英語をトレーニングするシステムは他にもありますが、先生自らがエディットできる、というのはなかなかないコンセプトだと思っています。

ここで、中原先生が「今度、うちの学校で小学生が自分で英文レターを書くという授業がある。そこで使えないだろうか?」とおっしゃいました。

即座に『トレパ』の特ちょうを鋭く理解していただき、適切な活用場面を考えてくださりました。しかも、なんてタイムリー!!

 

余談ですが、こういう「タイムリー」な出会いって時々ありますよね?

それぞれが同じような課題を抱えている。あるいは、それぞれが同じような領域について今まで考えてきていた。そんな両者が出会った時に生まれるコラボレーション! この時しか生まれないものです。どちらかが一歩遅かったり、どちらかが情報不足だったりすると、このコラボレーションは生まれません。

 

その後、何度かやりとりをしながら、授業は実施されました。その報告がこちらです。(←クリックしてください。)

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今回の授業でのポイントは3つあると思います。

(1)生徒各自が自分だけの英文(手紙)を書く。その内容をリスニング教材・スピーキング教材化する。

(2)小学生がリスニング・スピーキングを「楽しんだ」。

(3)同時に、「AIとは何か?」について学ぶ。(AIについてのリテラシー教育)

 

今回、(1)に加えて(3)について実施したのは、中原先生をはじめ加藤学園暁秀初等学校の先生方のファインプレーだと思います。『シンギュラリティ』の話を鵜のみにして語る方は多いのですが・・・実際、AIを使ったサービスを使ってみたことがある大人はどれくらいいるのでしょうか?

PCを触ったことない人がセキュリティ対策について語るな!という論調がありますが、同様に「自分たちでAIサービスを使ってみる」という姿勢こそ問われてくるでしょう。

自分でエディットして使えるAIツール『トレパ』を身近に置きながら、AIリテラシーについての授業展開をするというのは非常に合理的です。どこが人間と似ていて、どこが違うのか。それは使ってみてはじめて分かるものだと思います。

たびたび私がこのブログの中で主張しているのは、「AIを知ることで、人間の能力(の凄さ)を知る」ということです。

 

この子たちは、将来、AIを使いこなす「姿勢」が身についていくものと大いに期待できます。この取り組みを実施しようとした先生方の慧眼には恐れ入ります。

 

また、(2)の部分も重要です。

よく『トレパ』を紹介すると、「これは評価が厳しすぎて、子どものモチベーションが下がる可能性がある」というお声を頂戴します。

その可能性は否定しません。

しかし、一方で、実際に使っている小学生たちが『トレパ』の取り合いをしているという報告もよく聞くのです。

これは何故なのでしょうか?

もちろん、それぞれの集団の体質・風土や個性という問題もあるでしょう。もしかしたら、英語の習熟度も関係しているかもしれません。

しかし、私がこれまでお話を聞いていて、以下の2点が重要なのではないかという仮説に至りました。

【A】小学生の方が発音に関しては柔軟性を持っている

【B】自分で作った英文に関しては、発音を良くしたいという動機づけが強くなる

 

【A】に関しては、実は、大人が心配するよりも、子どもたちの方が柔軟性があるのではないか、という指摘をしたいのです。ICTについてと同様です。大人は、「タブレットとか導入して、本当に生徒は使うのか?」と心配する向きもあるそうですが、実際にはちゃんと指導すれば生徒は使います。同様に、「これがネイティブスピーカーの”耳”と”口”だよ」と紹介すれば、一生懸命に聞き、発音するように動機づけることは可能だと思います。

【B】については、もっと重要です。

先日、eラーニング・アワード2018フォーラムで、元・慶應大学教授の田中茂範先生がおっしゃっておられましたが、「自分ごとの英語」でないと、本当に生徒は学ぼうとしません。つまり、教科書などで「身近に感じられない」「自分の関心から遠い」英文で学習しようとしてもダメなのです。

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生徒にとって、自分が生み出した英文以上に「自分ごと」の英文は存在しません。

『このレター(英文)を届けたい!』

『(そのために)伝わる発音をしたい!』

『(そのために)正しい発音を知りたい!』

というモチベーションを発揮させるためには、手間は掛かりますが生徒一人ひとりが英文をつくり、それを教材化していく活動が最も効果的だと言えます。

これは、前回のブログで紹介した大阪府立箕面高校の森田先生の授業展開とも重なります。(https://www.digital-knowledge.co.jp/blog/archives/3570/

 

この点では、エディターとしての『トレパ』の面目躍如たるところです。

 

最後に。

箕面高校と加藤学園暁秀初等学校の生徒さん達の振る舞いで「共通項」が見つかりました。

 

 

それは・・・

 

 

タブレットを持って、教室のすみっこで発音練習すること!

※こんな感じ

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箕面高校・森田先生曰く

『私には聞かれたくないけれども、AIには平気で話す』

 

これも、「恥ずかしいから」「先生の手間をとらせたくないから」という見方もありますが、ちがう観点から解釈すると、

既にモチベーションが高まっているので、自分で納得するまでやりきりたい!という内発的動機によるもの

=先生にあまり干渉されたくない

というようにも捉えられるのかな、とも思います。

この点については、今後の様々なご報告の中で明らかになっていくでしょう。

 

今後も、こんな素敵な実践報告が届くことをお待ちしております。

 

★★★『未来の教育コンテンツEXPO』にて、トークセッション開催!★★★

https://sanka-miracon.jpeca.jp/2018/b201/

※ジョイズ株式会社・柿原社長、インターカルト日本語学校・矢口さん、日本大学高等学校・田中先生を招き、AIによる外国語教育について等身大の取組みを描きだします!