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基礎技術開発の重要性~~ABLE「脳科学を教育に活かす」に参加して~

朝夕、めっきり冷えてきましたね。お風邪など召されていないでしょうか。

eラーニング戦略研究所の「研究員」・岡田です。ご無沙汰しております。

 

最近、何をしているか、というと「研究」です。その一環として、先日はABELの「脳科学を教育に活かす」というセミナーに参加してきました。http://cogpsy.sfc.keio.ac.jp/able2018september/

このセミナーの主催者である慶応大学の今井むつみ先生(http://cogpsy.sfc.keio.ac.jp/imailab/)は、私の憧れの研究者です。認知科学の分野から、学習論を論じるという、「認知学習論」を提唱されており、特に第二言語習得と母語の関係性などの研究で有名です。数々の新書もご執筆されており、非常に明快な文章で中高生にも人気があるようです。

 

その今井先生の最初の一言は、非常に示唆的でした。

今、巷には「脳科学」の研究者が教育や学習についてあたかも真正な知見であるかのような情報発信をしている場合がある

こんな趣旨でした。

脳科学の研究者が教育や学習について語ることがそこまで危ういことなのか、と思う方もおられるでしょう。

しかし、いくつかの点で、学術的には危うい傾向があります。それを整理していきましょう。(ここからは、ABLEの発表を聞いて、岡田が理解した限りの論点整理です。責は岡田にあります。)

 

【Point1】

脳の「状態」を測定できるということ、また脳状態と心理状態との相関関係が明確になることと、「どうしたらそのような状態になるのか」とは異なる。

例えば、ある学習動画を見た受講生たちの心理状態と脳状態を計測したとします。

Aさんは、大変心地良く感じ、その時の脳状態も「心地よい」時に反応する状況だったとします。

Bさんは、大変不快に感じ、その時の脳状態も「不快である」時に反応する状況だっとします。

この違いについて測定できることと、なぜ2人の反応にこのような差異が生まれたのかを知ることは違います。例えば、Bさんはここに登壇していた講師のことを個人的に嫌いだっただけかもしれません。このように、「快/不快」や「集中/散漫」などの状態を計測することはできますが、これらの状態を引き起した原因について知ることは別のことです。

 

さらに深刻なことは、10個の英単語を覚えているCさんと、10000個の英単語を覚えているDさんの学習の差を、脳状態で測ることはおそらくはできないでしょう。もし、2人ともが英語学習を「心地よい」と思っていたら、そのような脳状態になるでしょう。もちろん、熟達具合によって、脳の多様な場所が同時に反応するか否かなど、調べることはありそうですし、今後、画期的な発見があるかもしれません。

一方で、何かを一瞬で判断することがタスクになっている場合には、その時の反応が脳内でどの部位が連動して動いているかは計測可能です。

 

一つのことが計測可能だからと言って、それを拡張して適用することは、アカデミックな領域では慎む場合が多いのですが、こと教育(というよりも「学習」)になるとそれぞれの持論を語ってしまいたくなるようです。

今井むつみ先生がおっしゃっていましたが、例えば脳科学で「猫」に対して行われた実験結果がどこかの論文に載ると、なぜか人間一般に当てはまるかのようにメディアが取り上げることがある、とのことです。

AI(人工知能)についても、確かにシンギュラリティの論説は、ある特定の研究者が提言しただけで、定説までになっていない状況でメディアが広めたという経緯があります。人工知能学会の有識者の方々はシンギュラリティに否定的です。

これらをまとめると、以下のようになります。

【Point2】

一つの学術的知見を、拡大解釈・拡大適用することは慎もう

 

加えて、当日登壇されていたスイス連邦工科大学のMINT学習センター所長のラルフ=シュマッハー教授が非常に面白い例を挙げていました。

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椅子というものは、様々な種類があるけれども、それを「記述」するのに様々な切り口がある。例えば、「機能的」「美的」「経済的」…など。

記述の多様性ということで私が思い出すのは、イギリスの女流哲学者アンスコムの著作『インテンション』です。

彼女は、次のようなシーンを例に挙げます。

ある男が夜中にノコギリで木を切っています。「何をしているんだ?」と質問された時、その男は何と答えるでしょうか? 普通に「ノコギリで木を切っていたのさ」なのか、「騒音をたてたかったんだ!」なのか、「おがくずを大量につくりたかったんだよ」なのか。

物理的には同じ現象や同じ物に対して、記述は多様にあります。学問領域や論者の立脚地によっても、同じ現象をどのように記述し、分析し、解釈するかは異なってくるでしょう。心理状態や学力を「脳の状態」という物理現象に一元化したり還元することが困難であることをシュマッハー教授は示唆してくれていたと思います。

【Point3】

記述を、ある特定のものに「還元」しようとしても無理なことがある

 

 

今、学びに対して「エビデンス」ベースに語られるべきこと、また価値ある学びが提供されるべきことに異を唱える人は少ないかと思います。

しかし、それらがゆがめられたりすることは、無自覚に学びを提供することと何が違うのか…そんなことを考えさせられた一日でした。

 

私たちが「トレパ」というサービスを立ち上げた時に、念頭にあったことは、このことです。AI(人工知能)を導入することで、価値ある学びが提供できる!と強弁する根拠がありませんでした。(今は、多少なりとも実証的に自信をもっていますが。)

学びは、誰にとっても身近であり、誰にとっても重要なものであるので、誰もが何かしら持論があります。しかし、それを「提供する側」になると急にその責任感の重さを実感します。批評家ではなく、実践家の皆さんと学びを創っていきたい。改めて、eラーニング専門会社として襟を正す思いです。

みなさんも、巷にある学習論を見直してみませんか?

 

◆「教育×AI」について岡田の論は、以前、AINOWさんに寄稿しました。

http://ainow.ai/2017/12/15/129360/