寺田文行先生を偲んで

By | 2016年12月19日

若干、個人的な話題です。

私が学生時代に所属していた研究室の教授、寺田文行先生が今年(2016年)の3月3日に89歳でお亡くなりになられました。葬儀は親族のみで執り行われ、12月17日に寺田研出身の卒業生や関係者を集めて寺田文行先生を偲ぶ会が執り行われました。

早稲田大学理工学部情報学科・・・ 今は学部も学科も改変されてますが、私が入学した1993年当時、情報学科は理工学部で最も新しい学科で、これからのコンピュータサイエンスやITの時代の幕開けを見越し、私が入学する2年前にいくつかの学科や他大学からも先生方が招聘され発足した学科でした。

寺田先生は元は数学科の先生で、情報学科の開設とともに移っていらっしゃいました。

寺田文行先生 ・・・ ある一定の年代以上の方には『寺田の鉄則』という高校生向けの参考書や、旺文社の大学受験ラジオ講座の数学の印象がありますでしょうか。あるいは先生がお手がけになった桐原書店の数学の教科書で勉強された方もいらっしゃるかもしれません。そして、今も続く高校数学のカリキュラムにも先生の考えが深く反映されており、その考えに従った数学の学びをした方は多数いらっしゃることでしょう。

あるいは代数をおやりの方は、寺田先生のガロア理論や線形代数などの書籍をお手に取られたかもしれません。先生がご出身の東北大学にて28歳のときに証明された「代数的整数論における単項化定理」は先生の金字塔の一つでしょう。これを持って昭和生まれの初の理学博士号をお取りになったそうです。

先生の授業は、とにかくわかりやすいと好評でした。よく通る大きな声、はっきりした発音で聞き取りやすいというのはもちろんですが、根本から積み上げてお教えくださる姿勢や、ポイント(鉄則というべきか)を押さえた上で展開される授業は、とてもわかりやすかったですし、数学、代数の面白さを感じました。今でも先生から教わったアーベル群やガロア理論について比較的よく覚えています。講義の最中、先生がよく通る声で「可換環、非可換環」と、アーベル群をご説明されていたのをありありと思い出す次第です。

 

一方、先生は決して平坦な道を歩まれたわけではありませんでした。

先生の一人息子「力」さんが重症身障者で、そのためのご不安や金銭的ご負担は如何許りのものであったろうと思います。先生がアメリカ留学を諦めたのもお金のことが理由であったし、予備校で働いたり出版社から受験用の数学の本をお出しになったのも、そもそもは数学者がお金を稼ぐ手段としてお始めになったのだと伺っています。

37歳の時、東北大学から早稲田の理工学部の数学科へ移られます。他の先生の言葉を借りると、これまで早稲田の数学は流体力学などの応用数学系がメインで純粋数学としては後手に回っていたのが寺田先生がいらっしゃったことでようやく数学科としての体系を築き上げたとのことでした。

その後、先生が48歳の時、ご子息、力さんを亡くされました。さぞ失意の中での生活だったと想像に難くありません。そんな中、先生を救ったのはやはり数学でした。力さんがよくおっしゃってた「お父さん、誰だって歩きたいよ。数学だって出来たいよ」という言葉を支えに、エリート選抜ではない数学教育を目指し、教科書改訂の際に「コア-オプション方式」を提唱しました。これは今も生きる高校数学の基本理念で、基準的なコアとなる教科(数I、数II、数III)と、専門性が高い選択制のオプション教科(数A、数B、数C)を分ける考え方です。これにより数学をすべてのひとに分かりやすく教えるという意思が高校数学に埋め込まれました。

そして「数学の成績が悪くて落ち込んでいる生徒のための参考書を作って欲しい」と、当時旺文社にいらっしゃった柴道生さんらの強い要望から作られたのが『寺田の鉄則シリーズ』です。数学を鉄則という形で体系的にまとめた鉄則シリーズは、わかりやすく、かつ難問とされる問題もスラスラ解けるようになると、当時既に数学の参考書として確立していたチャート式と並び、受験生の数学のバイブルとなりました。

 

先生の高校数学の足跡を思い起こす時に、ご子息、力さんの存在と不在を思わずにいられません。治療費捻出のためにお金が必要で、数学者がお金を稼ぐ手段として受験数学に足を踏み入れ、力さん亡き後は、力さんの「誰でも数学だって出来たいよ。」という言葉を支えに、数学の普及に力を入れたのだと思います。我々研究室のメンバーを見る目も、どこか父親が子供を見守る視線だったようにも感じます。

先生の包容力・・・ これは多くの方が語っておられましたが、どんなに生意気でも、先生の意に沿わなかったとしても、それを受け止めてくれるところがありました。何かを強制することもありませんでした。追悼の辞をお読みになった足立恒雄先生(寺田先生の最初の教え子、後に早稲田の数学科・情報学科の教授)もおっしゃってましたが、例え寺田先生のことを公に批判されても、寺田先生はそれを受け止めてくれたし、声を荒げることもありませんでしたし、むしろ支援してくれたそうです。私が学生の頃、1994年にA・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明した時に、この証明が正しいかどうかを検証するプロジェクトで足立先生が長期にアメリカに出張なさっている時期がありました。足立先生の授業に穴を開けてはいけないと代講として立たれたのが寺田先生で、その講義の中でフェルマーの最終定理の証明の道筋や、足立先生のなさっている研究についてお話なさったときがありました。この時も寺田先生は足立先生を讃えていらっしゃったのを覚えています。

もう一つ印象的だったのが、先生の経済的支援です。先生ご自身が長くご子息の治療費で苦慮されたこともあり、若手研究者でお金に困っている人に救いの手を差し伸べていたとのことです。参考書の執筆などの仕事を与え、しかも大半は先生が徹夜でなさった仕事を清書するぐらいのものだったにもかかわらず、原稿料は折半したと言います。

そういう先生の包容力や支援の結果、先生の元からは優秀な卒業生が幾人も生まれ、母校早稲田で教鞭をとる教授も六名を数えるといいます。数学科・情報学科の足立恒雄先生を筆頭に、数学科の江田勝哉先生、数学科の小松啓一先生、教育学部数学科の近藤庄一先生、理工学術院英語教育センターの上野義雄先生、人間科学学術院の松居辰則先生と、数学を基軸にしながらも様々な領域で母校の教育に携われていらっしゃいます。

代数に貢献し、高校数学を牽引し、人も育てる・・・ 先生がなさったことは実に偉大だったなぁと改めて感じる次第です。

(なんだかNHKの朝の連続ドラマシリーズの主人公にでもなりそうなお話だなぁと思ったりしております)

ちなみにその中のお一人、松居辰則先生とは現在弊社と共同研究を行なっていただいております。私の卒論を直接指導していただいた先輩でもあります。

 

ここからは私的な話になります。

大学3年生に上がるとき、所属研究室を選択しなければなりませんが、この時、私は不純な動機から寺田研を選択しました。

私は1997年に大学を卒業しましたが、卒業と同時に寺田先生は定年退職で退官なさるので、まさかご自身の退官の時に学生を落第させないだろう。そういう理由からだったのです。

当時の私は生意気盛り、大学の授業をそこそこに映画館に通ったり、大学3年からはスタジオジブリに出入りして映画漬けの日々を送っておりました。プログラムや数式は大好きだけど、ゆくゆくは映画の道に進みたいと思っており、まあ大学は中退してもいいかな、ぐらいなことを思ったりしたものです。

そんな動機が不純な学生である私をも先生は暖かく受け止めていただきました。当時寺田研にはCAI班と暗号班がありました。暗号班は寺田先生の専門の群論や整数論を実社会に応用した領域で、この班からは素因数分解の世界記録を打ち立てた青木和麻呂先輩をはじめ今の暗号技術を支える優秀な先輩方を輩出されました。暗号の活用はこれまで理論のみであまり役立つとは思えなかった整数論が実社会で役立つという点においても画期的なことでした。

そして私が属することになるCAI班はComputer Aided Instruction、コンピュータで指導をサポートする、つまり今のeラーニングの全身のようなシステムを研究開発していました。寺田先生は1980年代にはO-THEというレーザディスクとコンピュータを連動したシステムを旺文社からリリースしてました。ちなみに、Oは旺文社、Tは寺田先生、Hは廣瀬健先生、EはEducationの頭文字をとって命名されたものです。私は直接関わっていないので、当時研究室にあった実機や資料から推測するのみですが、確かパイオニアのレーザディスク2台をMacintoshで駆動し、適切な映像講義を流すというようなものだったように記憶しています。今日の映像授業やアダプティブラーニングの走りのようなものでしょうか。

私が研究室に配属された時には既にO-THEプロジェクトは終わっていて、私は「力学問題学習支援システム」に取り組んでいました。力学の斜面と滑車の問題を出題し学習者に解いてもらうわけですが、まずは斜面、滑車、オモリ、バネなどの構成パーツ、さらに力をベクトル分解した様子をコンピュータ(UNIX)の画面で描画させ、それぞれのベクトルから導き出される等式を入力してもらいます。それを推論システムが受けて、学習者の理解してないポイントや足りない知識を指し示すというものです。現在のアダプティブをもっとインテリジェントにやったようなシステムでした。ちなみに私はこのインタフェイスを担当し、描画・ベクトル分解・数式入力の機能を開発しました。

極めて不純な動機で入った寺田研でしたが、研究を進めるにつれ、「なんか面白いなぁ」と思いはじめるようになりました。不真面目な学生でしたが、開発はうわーっと、そして楽しんで進めていたのを覚えてます。

寺田先生は、そんな私に、時々アドバイスをいただきながらも、ニコニコと見守っていただいていたように記憶しています。私のような不真面目な学生を特に叱咤することなく、受け入れてくれていたんだなぁと思います。懐の広い、生意気な学生にも理解のある先生だったなぁと改めて思います。

 

私が大学入学した1993年はインターネットの黎明期、まだ一般的ではなく、私は大学のサーバやネットワークを使ってインターネットを利用してました。自宅のMacintoshから電話回線を使って大学や研究室のマシンにリモートアクセスして利用していました。当時、Impress社から出ていたInternet Watchというメルマガに、アルバイトとしてその記事を書いていたのも今となっては懐かしい思い出です。

覚えたてのHTMLを使ってみようと、研究室のサーバに個人的な記事やHTMLの実験ページをUPしていました。確かこんなアドレスで:http://www.terada.info.waseda.ac.jp/~jiyuuji/
今もそうかもしれませんが、当時のサーバ利用の自由度が高く、研究室のサーバはいじり放題でした。そのスペースを使って、私は思うことや感じることをつらつら書き連ねるということをやっていました。今になって思えば実にくだらない記事ばかりでしたけれど。

その私の記事を見たという見ず知らずの人からメールをもらったのが確か1995年の12月でした。「マルチメディアを使った教育サービスを立ち上げたいのだけれど、一度話を聞かせて!」そういう趣旨でした。見ず知らずの人からのメールに、はじめは「詐欺?」と思いましたが、友人らに相談したところ「たとえ詐欺でもお前に何か取られるものはないだろう。面白そうだから会ってみたら?」と言われ、じゃあ、と、年明けの1月に青山のマンションの一室に行き、そこで出会った「はが弘明」なる人物に地下の喫茶店に連れて行かれ、カラーで印刷された資料をもとに、数時間にわたりやりたいことを延々と聞かされたのです。

この人物こそ、今の弊社の社長で、当時は彼は29歳、若くてバイタリティ溢れる青年でした。まあ21年経った今もたいして変わってないようにも思いますが・・・

それで大学3年の冬にアルバイトとして入社し、それが縁で、当時進もうと思っていた映画の道を断念し、大学卒業とともに就職し、いまに至るというわけです。

 

ふりかえってみると、今日の私は寺田先生に導かれたのだなぁと思います。

数学者の先生が様々なご苦労や不幸を乗り越え高校数学をお手がけになり、その流れで先進的にCAIの研究開発を行い、不純な動機から研究室に入った若造がCAIの研究をやり、それを見たeラーニング会社の社長から引き抜かれた・・・

偲ぶ会で配布された出席者一覧は昭和40年卒の足立恒雄先生を筆頭に卒業年、アイウエオ順で並んでましたが、出席者一覧の末席は私でした。末席ながら、寺田先生のご遺志を引き継いでeラーニングをやらせていただいているのだなぁ、そういう流れの中に私はいるんだなぁと噛みしめる次第です。

 

先生のご遺骨はご子息力さんと共に、椿山荘前、カテドラル関口教会の地下に眠っていらっしゃるそうです。

先生への感謝と、ご冥福をお祈りいたします。

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About 吉田 自由児

ヒゲこと、株式会社デジタル・ナレッジ 代表取締役COOの吉田がお届けします。 弊社関連の情報だけでなく、eラーニング周辺の話題についても触れます。